日常に潜む恥辱
官能小説みたいなタイトルになってしまった。
日常に隠れた恥辱がある。
コロナウイルスの影響で、子供の通う小学校でも保育園でも体温を測って毎日健康観察をしなければいけなくなった。保育園に至っては送迎をする保護者(我が家では主に私)も体温を測らなければいけない。
真面目というかビビりな私は毎日測っている。
するとどうだろう。私の体温、二週間ぐらい36.9度前後が続き、その後36.5℃ぐらいが二週間続く。これは基礎体温丸出しなのである。
基礎体温を私の知識でざっくり説明すると、女性の性周期には体温が比較的高くなる高温期とそうでない低温期があり、低温期→高温期に移行するときに排卵、高温期→低温期の移行時に生理がある、という仕組みであったと思う。基礎体温は毎日の推移を正確に見るため、朝目が覚めた後すぐに布団の中で測るような非常にデリケートなもののはずなのだが、私の場合朝起きて身支度や食事などいろいろやった後に体温を測っても体温がハッキリと二相に分かれているのがわかるのだ。
保育園にしてみれば、その日の私の体温を見て「はいOKです」で終わりだ。
でも、こう毎日データにとることで思いもよらず私の性周期が丸出しになってしまうわけで、何だかこれめちゃくちゃ恥ずかしくないか?と思ってしまった。
日常に隠れた恥辱がある。
こんなこともあった。
科学館みたいな所に行った時、サーモグラフィに映ってみよう、的なコーナーがあったのでふむふむ…と行ってみたら、暑かったのか私のブラの部分だけ高温になっておりそこだけはっきりとオレンジ色に映っていた。何これ脱いでるも同じじゃん…と、のび太さんのエッチ!のポーズですごすごと退場したこともあった。恥ずかしい。
あと、最近は男性の俳優がキッチン用洗剤のCMをしたりするのを見る。家事はみんなの仕事ですからね。しかしそこでかっこいい俳優に「排水溝のヌメヌメ汚れ…」などと言われてしまうとお願い、そんな恥ずかしい所見ないで…と顔を覆ってしまう。よそのイケメンに排水溝のヌメヌメ汚れを見られるなんて、おっぱい見せるほうがマシ…いや、そこまではいかないかもしれないが、とにかくこれも恥ずかしくていたたまれなくなる。
恥ずかしいと思う事が恥ずかしいんだ!
教師に幾度となく言われてきた言葉を思い出す。確かにそうかもしれない。何も関係ない事を恥ずかしい事にしているのは私自身なのだ。
でも、子供の頃そう言われた時と同じように今も思う。
恥ずかしいものは恥ずかしいのだと。
怒るのって大変だ
私はあまり怒らない。
というか怒るのが苦手なのだ。良い方にも悪い方にも、感情が派手に動くと疲れてしまうからだ。
それは子育ての場面でもそうで、注意するということはあるけれど感情的に怒るという場面はあまりない。
それでもやはり子供にちょっとした迫力を込めてビシッと言わなければいけない時がある。そんな時は子供をひとしきり叱った後、身体にダメージが来て脱力感、倦怠感等がドッと出てくる。それまでの勢いはどこへ、「ちょっとママ横になるから…」と言いながら力なくソファに倒れこみ回復を待たなければいけない。体力が無いことでは定評がある私だが、精神的にも圧倒的にスタミナが不足している。
心身の健康のため怒りとは常に一定の距離をキープしたいと思っているが、困ったことに自分でもよくわからない所でマジでムカついてしまいどうにも出来ないことがある。
そのひとつがナンバーを「3298」にしている高級外車ミニクーパーだ。
これは見ると100パーセント怒号を上げてしまう。な~に自分の車種で語呂合わせをしてるのかと。くだらないことやってんじゃないよオ!!と反射的に窓をぴっちり閉めた日産ノートから叫んでしまう。しかもこれやっている車、結構いるのでミニクーパーを見るたびにナンバーをチェックしてしまう自分がいる。3298警察だ。私はわざわざ3298ナンバーを探してどうしたいのだろうか。私は怒りたいのだろうか?
あと、夫がチョコモナカジャンボのことを「ジャンボ」と言うのをスルーできない。大人げないと思いながらも我慢できずつい突っかかってしまう。「ジャンボ」って。バニラモナカジャンボ?それとも木村屋のジャンボむしケーキのことですか~?と悪態を付きたくなってしまう。「ジャンボ」って…。何だか馴れ馴れしくて嫌なのだ。「ジャンボ」って。あだ名じゃないか。そして「ジャンボ」と略すことで妙に抽象的になってしまう。文脈からそれがチョコモナカジャンボとわかっていても、ちゃんとここはフルネームで言ってほしいのだ。
そんなことより、この文章を書いていてチョコモナカジャンボのことをミスって「チョコモナカジャンボンボ」と書いてしまったがこれはめちゃくちゃ有りだと思った。
怒ると疲れるから怒りたくないだけで、決して怒りのスイッチが無いわけではない。怒りのスイッチはどこにあるか自分でもわからない。
子供達と入浴中、髪を洗っている無防備な私に突然冷水シャワーを浴びせてきた子供を咄嗟に怒ってしまいまたぐっと疲れる。こうして、怒りスイッチを突然ギューと押される時もある。
いつどこで巻き込まれるかわからない怒りにやられないようにするにはやはり心の基礎体力が必要と感じる。メンタルのフィジカルを強化する。自分で言っていてもよくわからないがそういうことなのだ。
じじいに巻き込まれるということ
「メンチカツとチーズって合うのか~?」
スーパーの総菜売り場。大きな声でそう唐突にじじいに話しかけられてハッと思い出した。知らないオッサンに距離無しで絡まれる感覚。今住んでいる所は比較的若い年代のファミリーが多く、よくわからないオッサンはあまり居ないのでこの感じを忘れていた。
思えばじじいによく巻き込まれてきた今までであった。
「オジサンにモテるっていう自慢?」とはくれぐれも思わないで欲しい。あくまで、「じじいに巻き込まれる」だけなのである。話したくて我慢できないじじいに話しかけられ、気が済んだらじじいは去っていく。それだけのことなのだ。じじいには何も求められていない。ただタイミング良くそこに居たのが私だということだ。
大学生の頃、本屋でいきなり「おじさん、ジャッキーチェンの親戚なんだよ」と見知らぬじじいに言われたこともあった。明らかに嘘なのだが、あまり深く関わりたくないので「はあ、そうなんですね…。」などと適当に相槌を打っていると
「ジャッキーチェンって何歳だと思う?」「何の映画に出てるか知ってる?」
とジャッキーチェンの知識を求められ、私がそこでモゴモゴしているとそのままどこかに消えて行った。何だったんだ今のは。
この手のじじい、概して声がでかい。コソコソっと話しかけてくれば聞こえないふり、独り言とみなすなどして無視もできようものだが、大声で面と向かって堂々と話しかけられると決して気が強くない私は何か返さざるを得ない状況になってしまうのである。
社会人になりたてのある日、私は遊びに行くべく常磐線上り列車上野行きに乗っていた。金曜の夜、下り方面はラッシュであろうが上りはぽつぽつと人がいるだけで、私は4人がけのボックス席に一人で座っていた。すると、ある駅でスーツ姿の三人組のじじいが乗ってきたのである。こともあろうにそのじじいトリオは「ここが空いている」とやいのやいの言いながら私の座るボックス席に三人で座ってきた。
じじい達は既に軽く酔っているようで、席に座ると各々が缶ビールを開け、私の存在などないかのように酒盛りを始めた。率直に居心地が悪い。
ここが私の良くない所なのだが、そこですぐに席を立てないという弱さがある。相手に嫌な思いをさせてしまうのではないか、そこまでするほどそもそも私は不快なのだろうか、そうモタモタ考えているうちに一人のじじいが私に缶ビールを渡してきた。ここでもまた私の良くない癖である迎合主義が出てしまいそれを受け取ってしまう。こうして知らない三人のじじいと一緒に何故か常磐線で飲むことになってしまった。あんなに白い目で見ていた常磐線のドランカー。私もついにその一部となってしまったことに肩を落とす。
聞けばじじい達はお通夜帰りという。どういう関係の人が亡くなればこうも楽しそうに通夜から帰宅していくのだろうか。ワーッと来たじじい達であったが、乗車時間は10分ほどでワーッと降りて行った。嵐。じじい達から帰り際に握らされたミックスナッツの袋を手に呆然としながら私は缶に残ったビールを飲むしかないのであった。
「何だったんだ」
それから10年以上経って、今総菜売り場で初対面のじじいにメンチカツとチーズの相性について問われている。
「おいしいんじゃないですかね」
完全に無視できず、また適当な相槌を打ってしまう。10年経っても私は変わらない。じじいは「カミさんが医者で忙しいから俺が買い物係なんだ~。」と自分語りをし、「やっぱり魚を食わないとダメだよな!」と言って結局アジフライをパックに詰めて去って行った。私の意見などハナから必要としていないのである。また思う。「何だったんだ」
この先10年、20年したらこういったじじいもいなくなってしまうのだろうか。それとも、今は大人しい私と同年代の人たちもじじいに成長したらデカい声で喋って回りの人を巻き込んでいるのだろうか。
そんなことを考えながらレジに並ぼうとするとさっきのチーズメンチじじいがレジにいた。軽く挨拶でもした方が良いのかと気まずい思いでモジモジしていたら、そんな私をじじいは気にする素振りもなく会計をすませ颯爽と帰宅していったのだった。
胃の検査、優しさ。
最近健康診断を受けた。
バリウムがやっぱり嫌いだ。
私はもともと胃が悪い。ピロリ菌も飼っていた。除菌した今も軽い逆流性食道炎がある。
それなのに深夜ストロングゼロとそれに乗っかったと思われるSTRONGとかいう異様に味の濃い(ガーリックバター味)ポテチを調子にのって食べて寝たりするので、胃酸が逆流しまくって鎖骨下あたりに飴玉をいっぱい詰められたようなゴロゴロ感と痛みに悶え目を覚ます。ストロングブームの中、私の胃は脆弱、貧弱、軟弱で即TKOなのだ。
なので胃カメラも4回もしている。鼻からも口からもしている。穴という穴から出たり入ったりしている。ちなみに出産もしているのであとは大腸カメラをすればコンプリートかなと考えたりしている。
よく辛い辛いと言われる胃カメラをもってしても、バリウムの方がつらいと私は思う。まず前日の夕食以降は何も飲食しないでくれと言われ、検査当日はじめて口に入れるのがぬるくてドロッとしててクリーミーで味のないバリウムだ。キンキンに冷やしてくれればまだいいのかもいれない?バリウム屋さんご検討ください。冷たいバリウム屋さん。
それも量がそれなりにある。のに一気に飲めと言われる。一気に飲めるのってせいぜいヤクルト一本とかじゃないですか?でもそういう量ではない。ジョア一本、いやもっとあると思う。
この時点でかなり気持ち悪くてオエっとこみ上げてきそうになるがゲップをこらえるよう厳しく言われているので涙目になって我慢しながら検査台へ。
そしてこの検査がまたひどい。両脇に持ち手のある、歯医者の診療台の立ちバージョンといった感じで、立ったままウィーンと検査台が傾き寝てるような状態になる。そこで
なんか別室の指令室みたいな所からマイクで「その場所で二回右方向に回転してください」とか言われる。気持ち悪いし、ヨレヨレの状態でバタバタと寝返りをうつ。何をしているんだ感。
そしてさらに、いろんな方向に傾けられる。頭→ / ←足 みたいな完全に頭が水平より下がっちゃってる状態にされても検査台から落ちないようにプルプルしながら必死で持ち手をつかむ。普通につらいのですが高齢者とか出来ない検査なのでは…?
その後も検査台の上で重力に抗った体制にさせられ、回され、息を吸って止めて吸って止めて。
大切にされていない。大切にしてほしい。心が叫びたがっている.
その点胃カメラははじめから「ものすごくつらいもの」という位置づけなので、それはもう大切にされる。検査前ガチガチになっていると看護師の人が「緊張するね、大丈夫ですよ~」とか言ってくれるし、検査中は背中をさすってくれる。これが本当に染みる。やさしい。今までに三軒で胃カメラをやっているがどこもやってくれた。カメラを飲むのは確かに楽ではないが人の優しさの中にいるのでなんとか耐えられる辛さだ(私にとっては)(嘔吐反射が激しいひとは本当に辛いらしいけれど)
と、書いていて思ったが、私にとって検査の辛さは大切にされるかされないかなのかもしれない。やさしくしてほしかっただけなのか。やさしくしてくれ。
大麻と恥ずかしい言葉たち
芸能人が大麻でつかまった。というニュースが職場のテレビのミヤネ屋でやっている。
大麻の危険性、中毒性、慣性、惰性、個性。それぞれの個性。
昔、社内向けのメールだか資料だかで苛性を仮性と書いてしまったことがあって恥ずかしかった。
ところで私が通っていた大学は法学部と経済学部が一つの学部となっていて「ホウケイ(法経)学部」となっていたが、その学部の人たちはそれを口にするのが嫌なのか、どこの学部か聞かれると「法学部」とか「経済学部」とか答えていた。意識してるんだな…と思った。
恥ずかしいと思うことが恥ずかしいんだ!事例だと思った。私は別の学部だったので他人事でしたけど…。
でも少し前に学部名が変わったようだった。よかったね。
しかしこういうエッ?って思う言葉を公で使っちゃう事例をたまに見る。
この春あたり流行っていた「マウンテンパーカー」、美容院で見た雑誌ではなんの躊躇もなく「マンパ」「マンパ」と略していた。いかがわしいパーティのようではないか。
みんなピュアなんですか?「マン」という言葉が出た時点で警戒しなければいけないのに。
私は「マンパ」とは絶対言えませんね。恥ずかしいので。ピュアなので。
さて、大麻。
大麻には身近な所にも使われていますとミヤネ屋。そうですね、服とか。
あと七味に入っているあの丸い実も麻の実ですよね。
「あの七味に入ってる実を食べまくったら気持ちよくなるんですかね?」
職場の唯一の同僚であり上司のヤマグチさんに聞く。
「さあ…あれって種でしょ?あれを蒔いたら大麻が生えてくるのか?」
「さあ…しかしあいつの意味なんなんでしょうね。無駄に存在感あるし。」
「俺はあれが無くなった六味とうがらしでいい。」
お互いに「さあ…」を繰り返し疑問に答えは出ないまま七味のあいつは不要という結論が出た。
ちなみに七味唐辛子は材料が7つ決まっているわけではなく、なんでもいいから7種類入っていれば七味唐辛子らしい。
お金が欲しかった
朝、電車を降りて改札を出たら、PASMOのチャージが百円ちょっとだった。
帰りに慌てないようチャージしとこうと思ってカバンから財布を出そうとしたら、ない。
財布を忘れた。
うちの職場は通勤の際、定期ではなく交通費はすべてPASMOにチャージして、チャージ分を支給してもらうという形をとっている。
なので、チャージもない、お金もない。つまり帰れない。
こんなにたくさんの人がいるのに、帰りの電車賃もない人ってこの中にいるのだろうか。
華原朋美の歌の歌詞のようなアーバンな孤独がここに本当にあった。
会社で誰かに借りようにも、職場は上司一人、私一人の小さな事務所で、たった一人の同僚である上司は出張で今日一日不在である。
詰んだ。詰み。ディズニー詰む詰む。
とりあえず職場に向かい、事務所があるビルの入り口で受付のお姉さんと挨拶をする。
最悪、この人に借りよう……と勝手に心に決める。
親しくもなんともないのだが、この街で私と面識があるのはこの人だけなのだ。
事務所に着いて、自分の机の引き出しをかたっぱしから開けて現金を探す。500円でいい。
書類トレイの下、名刺入れの中こんなとこにいるはずもないのに。
まあ、ないのである。
でも名刺入れに、私が貧乏学生時代使っていたちばぎん(千葉銀行)のキャッシュカカードが入っていた。
私が大学生の頃使ったのが最後だから…まあざっと50年は経っているだろうか。
使えるのかもわからない上、貧乏だったあの頃のメインバンク。ちばぎん。千円単位でおろしていたので、残高が数百円でATMで下ろせず~END~ということも大いにあるのだ。
それでも私にはこれしかない。
近くのコンビニに駆け込み、やや食い気味でATMにカードを突っ込む。
まだ使える…のか?
祈るような気持ちで残高照会をする。いや、本当に祈っていた。
残高 2180円
信じられない。二千円も。二千円も入っていた。
100円ローソンのうどんばかり食べていた私が、二千円も口座に残していた。
貧乏な頃の過去の私が助けに来てくれた。
感動にむせび泣きながら二千円を握りしめた私は、事務所に戻って心置きなくM-1グランプリ2019記者会見の生配信を見た。
ティンティンと間違えやすいです。